つながる

ソシュールやバルトらへんを少ししっかり読みたいなあと思う。
原典訳を読むにはもっとしっかり下準備が必要そうですが。


高校生の頃は「服ってなんなんだろうなあ」というようなことばかりを考えて過ごしたけど、ここにきて記号論だとかに興味を持つことには、それなりの因果を感じる。


服に対する意識が変わったのは、恐らく高2のとき。
友達が文化祭でインスタレーションのままごとみたいなことをやっていて、そこで彼女の展示していた「第三の服」に感銘、というよりもショックを受けたのを今でも覚えている。
(当時彼女は、ギャルソンに自作の服と哲学を持ち込み、働かせてくれとぶっこんでいたそうな。すごい。高2の、“女子高生”ですよ?)


第一の服が皮膚、第二の服が布、第三の服が意味空間。

みたいなことだったと思う。私たちは第二の服を着てるというよりはその上に第三の服を着てるんじゃない?的な内容だったかな。少し違ったかな。
無知を承知の上で術語を使えば、(第一の服を包容した)第二の服がシニフィアン、第三の服がシニフィエ、と言ったところなのかもしれない。

去年から鷲田清一だとか成実弘至らへんの本に何度か手を出して、服/モードに対する記号論的な分析(というか最近になって、記号的に読み解く内容だったのかと感じている。バルトとか出てきまくったし。読み直そうっと。)は一般的と言えば一般的であることを知ったけど、まあどちらにしてもあのときの衝撃が薄れることはない。


それは確実に今回のfabにもつながっている。


ずいぶんと会ってないなあ。今何を考え何をしているのか、聞いてみたい。